アクション好きが観てきた映画感想!!(あくまでも個人的な感想です)

映画の感想をブログでやってみます。なにぶん素人ですのでどうか暖かい目で見てほしいです(不快になられても責任とれませんので悪しからず)

ジョーカー

『ジョーカー』

監督 トッド・フィリップス

主演 ホアキン・フェニックス



短文感想
究極のヒーローの誕生も究極の悪の誕生も普遍的な町から産まれる。バットマンという作品を完成する究極のピカレスクロマンにして、最高のアメコミ映画!

見届けろ!
世界中に愛されたバットマンと言う作品の完成を!

個人的パーセント率 120%














ネタバレ感想
始まりは、一人の男がボコボコにされてる所から始まる。彼はこの映画の主役のジョーカーだ。
元々、彼は精神病棟にいて、そこから出て社会に戻ろうとしてる。
しかし、誰も彼のその状態に対して関心を持たない。それはそうだ、何故なら世界は彼よりも進む早さが早い。その日を必死で暮らしている人間に溢れてる。そんなのを気にしていられる人間は多くない。
この映画を見た人は富裕層はクズばかりだと感じてはいけない。何故ならそれよりも前に大事な事が抜けているからである。それはタイトルの前のオープニングだ。ジョーカーは育ちの悪い貧困層の少年達にボコボコにされているのだ。それの結果、銃を持ち運ぶようになり、富裕層の暴力に対して撃ったのだ。つまり彼は最初、両方から暴力を奮われたのである。それの結果が富裕層の人間の死であるだけで、彼は別に貧困層のヒーローになった訳ではない。一先ず中盤を飛ばして、クライマックスに行くと描かれているのはバットマンのプロローグである。貧困層の犯罪者に両親を撃たれたバットマンで終わる。
彼の両親を殺したのはジョーカーではない。
ジョーカーを崇拝した町だ。
ジョーカーも暴力を奮われたのはバットマンの両親ではなく、富裕層に支配された町だ。
そうこの究極のヒーローと悪の誕生に一番深い位置に関わっているのは互いの存在ではなくゴッサムと言う二人の故郷だ。
この事実が本当に心の底から素晴らしいと絶讚したい。
何故なら、クリストファーノーランのダークナイトの文字通りの裏の作品を真正面から描いたのだ。
真のバットマンという作品のファンなら喜ぶべきだと思う。
この映画で二人の故郷がどういう場所なのかが判ったからだ。
ジョーカーとバットマンはコインの裏と表、表裏一体と云われることがたくさんある。
その事が今まで良くわからなかったが、その事が本当に良くわかった。
自分の言葉で言うなら、バットマンは正義の暴走である。ジョーカーは悪の暴走である。
そして、ゴッサムという街は、全ての問題を隠す街なのだ。それ故に二人の問題と怒りが面をでない、故に二人は暴走し、無理やり面を出すのだ。
絶讚と共に号泣したい。
何故なら、この二人の結末はどっちかの勝利では終わらないからである。この二人は、前述の通り、コインだ。終わらせるには、コインそのものをどうにかするしかない。すなわち、コインを棄てるのだ=二人を消させるしかない。
しかし、それでは問題の解決にはならずにまた表面化する。そしてまた始まる。
正しく、バットマンと言う作品を完成させたのだ。
所々にでるホラー映画顔負けの恐怖のシーンは全て他者との関わりのシーンで出る。
最初とクライマックス直前の電車のシーンを筆頭に、尊敬する人間に笑い物にされた後の家のシーン、ジョーカーの出生の後に出た部屋のシーンなど、何故、他者との関わりの後に出たのかと言うと、他者=町であるからだ。
つまり観客はジョーカーに感情移入するから、町に恐怖を感じると言う寸法だ。そしてそんな町ですむ絶望は計り知れないだろう。
この映画では、其々の存在が色々なメタファーになっていてそこら辺を考えるのが非常に楽しいのだ。
富裕層と貧困層のチンピラはその層の目に見える暴力だ。
では目に見えない暴力とは?
それは、クライマックスのトーマスウェインと彼を殺した犯罪者だ。
互いに互いの世界にドップリと使った二人がこの映画の象徴なのだ。
現実で彼らを例えられるものはたくさんあるが、人の感情で例えるなら、善の心と悪の心である。
彼らは自分のエゴを押し付ける者だ。
トーマスウェインは富裕層だから、富裕層の信念と悪に従う。
彼を殺した犯罪者は貧困層だから、貧困層の信念と悪に従う。
では、普遍的な者は?
ロバート・デ・ニーロ演じるMCがこの町で一番普遍的な者である。何故なら、デ・ニーロはジョーカーを笑い物にしたと描いたが、それは恐らく番組の流れで仕方なくなのだと解釈できなくはない。
何故なら、そう解釈したら、とてつもなく趣味の悪いブラックジョークができて、内容がジョーカーらしいのだ。
例えで出すが、80年代のコメディ番組なのだから、人を笑い物にしまくる、けど彼はジョーカーがクライマックスで番組に来たときの裏の挨拶でジョーカーに対して何の嫌悪感も出さなかったのだ。ピエロがカオスの象徴となってるなか、ピエロ姿で現れたジョーカーを見てディレクターが時間を減らそうと言ってるのに減らさなかった。それは彼がそのジョークを受け入れようとしたからだ。けどドンドン出てくるジョーカーの悪行に対しては頑として反対の姿勢を取っている。番組の観客がジョーカーを摘まみ出せと言ってても彼はその意見を聞かずにジョーカーの言葉を聞いて反対したそうこの映画で唯一普通の人間がジョーカーに真正面から反対したのだ。
ジョーカーがオープニングの時点の感情だったら、きっと止まっていたと思う。けどデ・ニーロと対決した時にはもう狂っていて、彼はそれを受け入れたのだ。
故に誰の言葉も届かずにデ・ニーロを殺したのだ。どんなブラックジョークが出来たかって?
壮大な悪の被害者も壮大な正義の代償も払うのは普通の人間の命なのだと言う正しくジョーカーが常にバットマンに対してお前と俺の何が違うんだと言う問いを明確に例えの例にしてに出した究極のブラックジョークなのだ。
ダークナイトの象徴が、船が爆発しないなら、この映画の象徴はデ・ニーロの死だ。
人が生きる部分と人が死ぬ部分。
今までのバットマンの作品はヒーロー物だから、生きる部分を象徴的に描いたが、この映画は正に正反対、人が死ぬ部分を象徴的に描いたのだ。

この映画の感想の殆どが個人の感情になってしまったのは、観て欲しいからだ。
ダークナイトを観てない人は、この映画を観た後でも観る前でも良いから一緒に観て欲しい!
この2つの作品を持ってバットマンは完成するのだ。
この2つの作品を持ってコインが完成するのだ。
この2つの作品を持ってコインが宙に飛ぶのだ。
表か裏のどちらを選ぶのも個人の自由だ。
それが人間の権利なのである。

最後にこの感想を読んでくれた読者の人の全てに聞きたい、貴方はどちらを選ぶ?